【軽井沢・別荘】避暑地軽井沢の別荘の歴史について知ろう

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軽井沢と言えば日本有数の別荘地。その誕生は、明治18年(1885年)にカナダ生まれの宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショーが友人のディクソンとともに軽井沢を訪れたことに端を発します。その後、宣教師を中心とした多くの外国人に愛され、華族や政財界人といった日本人からも人気を集めます。今回は、この軽井沢での別荘の歴史を辿ってみたいと思います。

軽井沢で最初の別荘

軽井沢最初の別荘ショーハウス

ACショーは、美しく清らかな軽井沢の自然と気候に感嘆し、明治18年以降、3年間にわたって軽井沢で夏を過ごします。そして明治21年、旧軽井沢の大塚山(だいづかやま)に別荘を建てます。これが軽井沢初の別荘です。(詳しくは、「宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーの功績」を参照ください)

日本人最初の別荘「八田別荘」

日本人最初の「八田別荘」

その後、ACショーが内外の知名人に、保健と勉学の適地として軽井沢を紹介したことから、友人の宣教師たちが次々と別荘を建てるようになります。そして明治26年(1893年)、海軍軍人であり、のちに衆議院議員になられる八田裕二郎(はった ゆうじろう)氏が、日本人初の別荘を建てるのです。

八田氏は、群馬県の霧積温泉に療養に来た際、軽井沢に立ち寄り、清澄な高原の気候を楽しみます。イギリスに留学し、グリニッジ海軍大学を卒業後、海軍大佐まで累進。イギリス公使館付武官、フランス公使館付武官を務めたことから語学に長けていた彼は、外国人たちとのコミュニケーションが楽しめる軽井沢をおおきに気に入ります。そこで土地を購入し、木造2階建ての別荘を建てたのです。

2019年夏の公開スケジュール

鹿島建設・鹿島岩蔵

軽井沢・旧ゴルフ通り
鹿島ノ森を抜ける「旧ゴルフ通り」

明治26年にはもうひとつ、別荘地・軽井沢にとって大きな出来事がありました。それは碓氷新鉄道の開通です。東京からの交通利便性が飛躍的に向上したことにより、軽井沢は発展の速度を早めます。この碓氷新鉄道(アプト式鉄道敷設工事)の大半を請け負ったのが、鹿島組(現・鹿島建設)の二代目であった鹿島岩蔵氏。1年9か月にわたる工事の際、軽井沢に本拠地を置いた彼は、その美しい自然と涼やかな気候を気に入り、のちに万平ホテルの創業者である佐藤万平氏とともに、15万坪もの土地を購入。日本人用の貸別荘6戸を建てるとともに、日本人3人目の別荘保有者となります。そして鹿島岩蔵氏も、落葉松の植林を実施。やがてそこは並木道グローブと呼ばれる美しい名所になり、大正期には別荘地として分譲が開始され、現在の「鹿島ノ森」へとつながります。

野沢組・野澤源次郎

軽井沢・野沢原
雲場池周辺の「野沢原の別荘地」

また、時を同じくして貿易商社「野澤組」の野澤源次郎氏が軽井沢で転地療養し、健康を取り戻したことから約200万坪の土地を取得。「健康保養地」と銘打ち、分譲を開始します。雲場池周辺にホテルやゴルフ場、マーケット、並木道などを整備した“ハイカラリゾート”を生み出したことで、野澤原と名付けられたその一角(現・六本辻周辺)は、華族や政財界の要人たちの洋風別荘が競うように建ち並びます。徳川慶久、大隈重信、後藤新平ら名士たちが名を連ねたのです。

西武グループ・堤康次郎

まさにハイソサエティな人々の町として栄えていく軽井沢ですが、その一方で、比較的所得の高いホワイトカラーの人々にも手が届く、庶民派別荘も大正期には分譲されます。沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)を、のちの西武グループの創業者、堤康次郎氏が「土地付五百円別荘」として販売。その後、軽井沢は別荘地エリアを広げていき、それぞれに特色を持った形で発展しながら現在に至ります。

まとめ

昭和に入り、戦後の時代、さらには平成、令和と、いつの時代も軽井沢は別荘地としての人気を高く維持しています。軽井沢の道路は「鳩山通り」「大隈通り」「堀辰雄の道」「近衛レーン」「細川レーン」など、財界人、政治家、芸術家の名前が付けられ、あの元総理大臣、田中角榮氏も別荘を構えていました。その建物はもともと水戸徳川家13代当主徳川圀順の別荘として建設されたもの。土地や通りだけでなく、由緒・歴史が詰まる建物も受け継がれているのが、軽井沢の魅力・財産といえるでしょう。

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