【軽井沢・大洪水】明治43年の大洪水がもたらした現在の軽井沢の姿

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静澄な軽井沢ではありますが、ときには自然災害に見舞われることもあります。近年では平成13年の台風15号や平成19年の台風9号による被害が特に大きく、自然の猛威に驚くばかりです。その軽井沢の歴史において、最も被害が大きかったのが、明治43年の大洪水。実はその大洪水によって、避暑地・軽井沢の様子・歴史が変化するのです。

軽井沢・旧ゴルフ通り
鹿島の森別荘地の中を通る「旧ゴルフ通り」

壊滅的な被害の後に計画された県立公園化、そして新たな別荘地開発

記録によると、明治43年(1910年)8月9日から19日まで、軽井沢は集中豪雨に襲われました。当時の浅間山麓一帯は、火山灰や火山礫が堆積し、その上に天明3年の大爆発によって降り注いだ軽石が覆いかぶさっていたそうです。大量の雨は土石流を巻き起こし、矢ケ崎川を流れ下って二手橋の橋げたを堰き止めます。その結果、水は旧軽井沢商店街(中山道)を流れ下り、旧道下の平地に押し寄せるのです。

離山や三度山の盆地は、一時泥水の湖に。旧軽井沢では、死者4人、別荘全壊18戸、破損29戸、流出19戸、浸水家屋370戸、一ノ字山崩壊、三笠ホテルの日本館が山津波により倒壊し、中軽井沢では湯川橋、湯川鉄橋流失、家屋流失4戸。さらに碓氷トンネルが崩壊し、鉄道は不通となる甚大な被害となりました。

この大洪水により、軽井沢は壊滅的となります。外国人たちは洪水を恐れ、平坦な草地を避けて高地帯に移ります。特に愛宕山は、その後、外国人別荘が数多く建設されるようになっていくのです。

壊滅的となった軽井沢を復興させるために、長野県庁は軽井沢を高原風の県立公園にすることを検討します。内外から観光客を集め、軽井沢町の経済を支えるという方針を打ち立て、その計画設計案を、日本初の林学博士である本多静六に依頼します。本多は軽井沢を踏査し、「軽井沢遊園地設計方針」を立案するのです。

しかし、計画そのものは素晴らしいものではありましたが、経費があまりにも高額で、長野県はこの計画案を見送ることにします。そしてその後、軽井沢は「軽井沢高原別荘村づくり」に方針を転換していくのです。そこには本多をはじめ、台湾総督府民政長官や外務大臣、東京市長などを歴任した後藤新平、そして彼らと親交がとても厚かった貿易商・野澤組を率いる野澤源次郎の存在があったと推察されます。野澤は大正4年(1915年)に軽井沢六本辻周辺約100万坪の土地を取得。別荘地開発を手掛けていきます(【軽井沢・別荘】避暑地軽井沢の別荘の歴史について知ろう 参照)。ちなみに日本初の住宅専門会社であり、数多くの別荘を軽井沢で建てた「あめりか屋」の橋口信助(【軽井沢・あめりか屋】明治・大正期における西洋住宅のパイオニア 参照)とは、この軽井沢別荘地開発計画に伴い、大正4年にタイアップ。注文別荘や貸し別荘、その他公共建造物の設計・建築の請負契約を結んでいます。

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このような経緯から、現在の別荘地・軽井沢の礎が築かれていったのです。今の軽井沢の姿があるのは、不幸にもこのような大洪水があったからともいえるのではないでしょうか。計画的に整備された別荘地や道路は、その後の発展や美しい街並み維持を支える基礎となりました。苦難の歴史を経て、人々が愛する素敵な軽井沢は生まれ、育ったのです。

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