明治17年(1884年)、碓氷新道(現在の国道旧18号線)が開通し、旧宿場町は打撃を受け、完全に終止符を打ちます。しかし明治18年(1885年)、カナダ生まれの英国聖公会宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショー(1846~1902年)が、たまたま軽井沢を訪れたことで、軽井沢の歴史は大きく動き出すのです。今回は、避暑地軽井沢を生み出したショーにまつわるエピソード・人物像をお伝えしたいと思います。
福沢家の家庭教師でもあり、日本人教職者の育成にも力を注ぐ
ショーが誕生したのは英領カナダのトロントで、軍人の家に生まれたそうです。トロントのトリニティ・カレッジで神学を学び、1870年に聖公会の司祭になりました。1873年(明治6年)に来日。布教活動ともに福沢諭吉の子どもたちに英語を教えたことがきっかけで、福沢家の家庭教師も務めました。後には慶応義塾に倫理学教授としても招聘され、明治8年(1875年)には政治家である尾崎行雄もショーの手によって洗礼を受けています。明治12年(1879年)に聖教社神学校を設立。日本人教職者の育成にも尽力した人物です。
美しく清らかな自然と気候、故郷に似た風景に魅了される
明治18年、暑い東京の夏から逃れるように、ショーは帝国大学教師のディクソンとともに軽井沢を訪れます。そして当時は休業状態だった旅籠亀屋に逗留するのです。2人は、その美しく澄み切った清らかな自然と気候をおおいに気に入り、ショーは故郷のトロントと似ていると感じます。翌明治19年の夏にも、彼らは家族を伴って再訪。ディクソンは旅籠亀屋を経営していた佐藤万平所有の家屋を、ショー一家は高林薫平という人物の居宅を借り、7月から8月まで滞在します。
ショーとディクソンは、友人たちにも軽井沢の素晴らしさを伝えていきます。そして、翌明治20年にも十数名の友人を誘って避暑に訪れます。3年間にわたり、軽井沢の魅力を感じたショーは、明治21年5月に、「つるや」(現在のつるや旅館)の主人である佐藤仲右衛門のあっせんを受け、大塚山(だいづかやま)に別荘を設けます。この別荘第1号の誕生により、避暑地軽井沢が幕を開けるのです。一方ディクソンは、佐藤万平宅敷地内に旅籠を移築し、別荘とします。
ショーはその後も、軽井沢を内外の知人・友人に保健と勉学の場として紹介していきます。その結果、次々と宣教師の別荘が建ち始め、明治26年(1893年)には、日本人最初の八田別荘も建てられました。同年、碓氷新鉄道が東京と直結したことで、避暑地軽井沢はその発展の速度を早めていき、現在へとつながっていくのです。
まとめ
避暑地軽井沢が生まれた背景には、このようなストーリーがあります。ショーの別荘は、養蚕民家を移転し、改造した簡素なものだったそう。後に移築され、現在はショーハウス記念館としてショー記念礼拝堂の裏にあります。ぜひ訪れてみてください。