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【軽井沢・室生犀星】軽井沢が舞台の作品を数多く残した詩人・小説家

軽井沢には室生犀星記念館があるように、室生犀星は軽井沢を幾度も訪れ、数々の名作を世に送り出しています。1889年(明治22年)、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であったハルとの間に私生児として石川県金沢市にて誕生。その生い立ちは、彼の文学に大きな影響を与えたそうです。今回は、室生犀星の足跡と軽井沢との関りについてご紹介しましょう。

高等小学校を中退し、裁判所に就職。人生が大きく動き出す

出典:Wikimedia Commons

室生犀星は、生後間もなく、近くの雨宝院の住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、7歳のときに室生家に養子として入ります。実の両親の顔も知らず、「お前はオカンボ(妾)の子だ」とからかわれ続けた彼は、生みの母親に対し、二重束縛(2つの食い違いが及ぼす心理的負担)を背負います。犀星は、「夏の日の匹婦(いやしい女の意)の腹に生まれけり」という句を詠んでおり、その思いはその他の作品にも表れているとされています。

明治32年、金沢市立野町尋常小学校を卒業。翌年、金沢高等小学校に入学するも、明治35年に長町高等小学校を3年で中退し、義母の命令で金沢地方裁判所に給仕として就職します。実は、この就職が、その後の文豪・室生犀星を生み出したきっかけとなるのです。

俳人であった裁判所の上司から手ほどきを受け、俳句会へ参加。新聞投句などを始めるようになり、詩や短歌にも創作範囲を広げます。そして勤務先で回覧雑誌をつくるなど文学に入れ込み、ついには明治39年、「文章世界」3月創刊号に小作品が初入選を果たします。このときの筆号は室生殘花でしたが、この年から室生犀星を名乗るようになりました。

以来、頻繁に新聞や雑誌に作品が掲載されるようになり、文学を通じた友人・知人も増えていきます。明治42年に裁判所を退職。新聞社に就職するも社長との衝突などで長続きはせず、明治43年5月には、裁判所時代の上司であった俳人・赤倉錦風を頼って上京。その後は、何度も帰郷・上京を繰り返します。

文化人と交流を重ね、作品を次々と発表。大正9年、軽井沢へ

そんな中で室生犀星は、着実に作品を世に送り出しながら、評価も高めていくのです。北原白秋や藤澤淸造、安野助太郎、廣川松五郎、佐藤春夫、山村暮鳥、萩原朔太郎、谷崎潤一郎、芥川龍之介、堀辰雄、志賀直哉、川端康成など知己を得た文化人は数知れず、同じく発表された作品は枚挙にいとまがありません。それらすべてをお伝えしていると、とんでもなく膨大な文章になりますので、ここでは割愛させていただきます。

旧居は「室生犀星記念館」として無料で公開されています

さて、このような活躍の中、室生犀星と軽井沢は、いつ、どのように結びついたのでしょうか。犀星が初めて軽井沢を訪れたのは、大正9年のこと。清涼な空気と自然豊かな景色に魅了されたようで、「つるや旅館」を常宿とし、芥川龍之介や萩原朔太郎、歌人でアイルランド文学翻訳家であった松村みね子らと交友を深めたそうです。昭和6年7月には、大塚山(だいづかやま)下の軽井沢1133番に純和風の別荘を建て、亡くなる前年まで毎夏、2~3カ月ほどを軽井沢で過ごしました。また、昭和19年から昭和24年9月までは、一家で疎開生活を送っています。

犀星は、軽井沢を舞台にした作品も数多く残しています。小説は『杏(あんず)っ子』『聖処女』『木洩日』、随筆は「碓氷山上之月(うすいさんじょうのつき)」「信濃追分の記」などが有名です。これら名作を執筆したであろう別荘(旧居)は、現在も「室生犀星記念館」として残され、無料で公開されています。自らつくりあげたといわれる庭は苔が生し、旧居の落ち着きある佇まいと見事に調和しています。

室生犀星夫妻が今も眠る

旧軽井沢銀座通りの先にある二手橋を渡り、左に折れた矢ケ崎川の川辺に「犀星の詩碑」があります。1959年「かげろう日記遺文」で野間文学賞を受賞した記念に、私費で建立しました。後年、室生犀星夫妻の遺骨が生地金沢からこの地へ分骨され、夫妻はこの石像の下で静かに眠っています。

まとめ

ちなみに、室生の読み方ですが、犀星は「むろう」「むろお」の双方の署名を用いました。室生犀星記念館では、「むろお」を正式としていますが、「むろお」への統一を強制するものではないとしているため、現在も「むろお」「むろう」の両方が使われています。

室生犀星ゆかりの場所

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