軽井沢中興の大恩人・野澤源次郎の足跡をたどる第二弾。現在もたいへんな人気を誇る「旧軽井沢ゴルフクラブ」と「軽井沢ゴルフ倶楽部」の誕生の歴史、そして秘話に迫りたいと思います。今回も、澤源次郎の孫にあたる岡村八寿子さんが上梓された「祖父 野澤源次郎の軽井沢別荘地開発史より 源次郎と3人の男たち」を参考文献として書かせていただきました。
野澤源次郎と神田鐳蔵が持つ土地に誕生した「軽井沢ゴルフクラブ」
大正11年に軽井沢初のゴルフ場が、旧軽井沢に誕生します。その2年前の大正9年に「軽井沢ゴルフ倶楽部」の発起人たちによって計画されたとされていますが、実はそれより以前から計画は存在し、野澤源次郎に土地提供の打診がなされていたようです。
大正7年10月に野澤源次郎と神田鐳蔵の2人の名義により、長尾原の土地約6万坪が購入されています。しかし、その前年の大正6年に発刊された雑誌の寄稿文の中に、「野澤氏は独力でゴルフグラウンドを寄付されるとの噂もある…」と書かれており、ずいぶん以前からゴルフ場の計画はあったと推察されます。そして大正9年に「軽井沢ゴルフ倶楽部」は正式に発足。同年9月に、野澤源次郎と神田鐳蔵の2人と借地契約を締結するのです。
ちなみに旧軽井沢にあるこのゴルフクラブについて、「野澤源次郎が作った」という話が一部に伝わっているようですが、このように野澤源次郎は土地を貸しただけで、「作った」というわけではありません。
大正9年10月、スコットランドのセント・アンドリュースのトム・ニコル氏の設計により、造成工事は着手されます。翌年大正10年に6ホールが、大正11年に全9ホールが完成し、「軽井沢ゴルフクラブ」が誕生(運営:軽井沢ゴルフ倶楽部)。フェアウェイは野芝、グリーンはサンドグリーンでしたが、大正12年には高麗芝に変えられました。
その大正12年8月20日には、摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が完成したばかりのこのコースでプレイされています。実はその前日の19日に、摂政宮殿下は野澤源次郎を御前に召され、軽井沢を開発した功績に対し、親しくお褒めのお言葉を賜れたそうです。
もっとゴルフを楽しみたいという要望から移転し、新コースが完成
「軽井沢ゴルフクラブ」はその後も盛況で、昭和4年(1929年)頃には「9ホールでは物足りないので、18ホールにするために移転しよう」という機運が高まります。そして昭和5年3月、雨宮鉄郎氏所有の南ヶ丘の土地、約50万坪の売買契約を結び、5月にはゴルフ場の建設および土地分譲事業が開始されます。翌昭和6年の夏にインコース9ホールが、昭和7年の夏にアウトコース5ホール、その年の年末に残る4ホールが完成。新ゴルフリンクス(現在の軽井沢ゴルフ倶楽部)が誕生したのです。
パブリックコースとして再スタートした「旧軽井沢コース」
こういう経緯の中、昭和6年11月に、軽井沢ゴルフ倶楽部との借地契約が解除されます。ゴルフ場の土地は神田氏の管財人でもあった野澤組に返還されたのですが、その際、軽井沢ゴルフ倶楽部は芝生やハウス、家具類、その他付属品を添えて返還したため、野澤組はその対価として1000円を支払います。こうして野澤組が経営するゴルフ場、「旧軽井沢コース(名称は諸説あり)」(現在の旧軽井沢ゴルフクラブ)がパブリックコースとして誕生したのでした。
進駐軍に接収され、荒れ放題に。鹿島守之助氏の尽力で復活・再開
野澤組は、昭和17年頃まで「旧軽井沢コース」の運営を続けますが、戦争の進展とともに物資や従業員の確保に苦労し、やむなく中断。戦後は進駐軍の乗馬施設として接収され、さらに経済の混乱の中、敷地は分割処分目前の状況となります。この歴史あるゴルフ場が存廃の危機に陥った際、復活に向けて尽力されたのが鹿島守之助氏でした。
鹿島氏は敷地を買い受けるとともに、関係方面への接収解除の働きかけに奔走します。その甲斐あって昭和23年に接収は解除。しかし、コースは荒れ果て、見るも無残な姿だったそうです。それでも昭和24年には、「旧軽井沢ゴルフクラブ」は再開され、現在に至ります。
初夏は新緑に包まれ、秋には紅葉が輝くこじんまりとした高原ゴルフコースである「旧軽井沢ゴルフクラブ」。野澤源次郎は、イギリスより輸入したさまざまな樹種を植林し、この美しいコースの礎を築きました。その思いは鹿島氏をはじめ、その後にゴルフコースを守る人たちにしっかりと受け継がれています。別荘地・軽井沢の発展とともに歩みを進めたゴルフコースには、こんな物語が秘められていたのです。
まとめ
「旧軽井沢ゴルフクラブ」と「軽井沢ゴルフ倶楽部」。よく似た名前なのには、このような歴史的背景があったのです。野澤源次郎や野澤組がかかわったのは、「旧軽井沢ゴルフクラブ」ですが、両コースとも、今も多くのゴルファーが憧れのコースとしてプレイを楽しんでいます。こんな素敵なコースを満喫できるのは、先人たちの努力と、このコースを愛した人々の熱い思いがあったからこそ。ぜひ、そのことを胸に刻んでいただけたらと思います。