浅間山は、長野県軽井沢町及び御代田町と群馬県嬬恋村の境にある標高2,568mの成層火山で、現在も噴火活動を続けている国内最大級の活火山です。なだらかな稜線が特徴で、その美しい山容は地元の人をはじめ、山麓の軽井沢、北軽井沢に訪れる観光客にも親しまれています。今回は、そんな浅間山の歴史についてお伝えしたいと思います。
繰り返された火山活動により、三重式となった浅間山
成層火山である浅間山は、三重式になっています。第一外輪山は、黒斑山、牙(ぎつぱ)山、剣ヶ峰からなっており、第二外輪山は、前掛山、東前掛山。そこに寄生火山として小浅間山、石尊山、車坂山があります。歴史的にみると。最初に黒斑山が活動し、陥没して大きな火口(湯ノ平)ができたそう。その後、長い休止期を挟み、火口内において前掛山が噴火。噴火口は直径800mにも及び、天明3年(1783)には史上最大の噴火を起こし、急速に成長したことで現在の釜山となりました。
標高2,568mの浅間山ですが、明治44年(1911)の測量以来、徐々に高くなっているそうで、今も活動していることがよく分かります。近年では2009年2月に噴火。2019年8月7日には山頂火口で小規模の噴火が発生し、噴火警戒レベルは3に引き上げられるとともに、火口から概ね4km以内は入山規制となりました。現在、気象庁の発表によると噴火警戒レベルは1。「火口から500mの範囲に影響を及ぼす程度のごく小規模な噴火の可能性がありますので、地元自治体等の指示に従って危険な地域には立ち入らないでください。突発的な火山灰噴出や火山ガス等に注意してください。」とのことです。
浅間山の歴史 天明3年の大噴火。大飢饉に拍車がかかる
天明3年(1783)の4月頃から断続的に活動を続けていた浅間山は、7月6日(旧暦)から3日間にわたる噴火で大災害を引き起こした。このときに発生した火砕流により、嬬恋村(旧鎌原村)では152戸が飲み込まれ、村民570名のうち477名もの命が奪われたほか、群馬県下で1,400名を超す犠牲者が出たといいます。噴火によって河床が上昇し、直後には吾妻川水害が発生。さらに3年後の天明6年には、利根川流域全体に洪水が起こり、利根川治水に重大な影響を及ぼすことになりました。
浅間山の噴火は、大量の火山灰を広範囲に降らせました。東側を中心に堆積し、遠くは江戸や銚子まで達したそうです。碓氷峠から倉賀野、新町の田畑はすべて火山灰に埋め尽くされ、関東一円に降った火山灰は農作物の生育にも悪影響を与え、すでに始まっていた天明の大飢饉に拍車をかけることになったのです。
鬼押出し園
天明3年の大噴火の時、鬼押出し溶岩流が堆積して出来た溶岩群は、鬼押出し園として観光スポットになっています。園内を全部回ると約60分。園内には火山をテーマにした「浅間火山博物館」があり、溶岩トンネルの中を地底探査機 M S-A3に乗り込んで浅間山の生い立ちを疑似体験することができます。
軽井沢から国道146号線を北上して、峰の茶屋の分岐を左に進むと有料道路「鬼押しハイウェイ」が始まり、その途中に「鬼押し出し園」があります。
途中の「浅間六里ヶ原休憩所」は、雄大な浅間山と裾野に広がる樹海が見晴らせる絶景スポットです。
鎌原観音堂
鎌原土石雪崩に襲われた鎌原村にある観音堂。当時、土石流に気付き、ここまで避難できた者と村外にいた者の合計93名のみが助かったそう。現在、観音堂地にある石段は15段だけが残っていますが、「もっと石段はあった」という言い伝えが残っていた通り、昭和54年に発掘調査がおこなわれた結果、石段は全体で50段あったことが判明しました。土石流は35段分もの高さ(約6.5メートル)に達するほどの大規模なものだったのです。
埋没した石段の最下部で、母を背負った娘と推察される女性2名の白骨化した遺体が発見され話題となりました。そのほか生活用品や仏具なども多数発掘されています。
まとめ
浅間山を訪れると自然の力の偉大さに気づかされ、畏怖の念も抱かされます。雄大な姿を眺めるとき、さてあなたはどんな思いに浸るのでしょうか。春夏秋冬によってその装いを美しく変化させる浅間山に、ぜひ出かけてみてください。