【軽井沢宿】江戸時代を迎え、繁盛した軽井沢宿の歩みを知る

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今やリゾート、旅行先として大人気の軽井沢。避暑地としての歩みを始めたのは明治時代となってからですが、今回はそれ以前の「江戸時代の軽井沢」に主に焦点をあて、お伝えしていきたいと思います。では、江戸時代の軽井沢へタイムスリップです。

繁盛したのは軽井沢宿だけ。軽井沢は作物に恵まれない寒村だった

軽井沢・二手橋
碓氷峠を下りきり二手橋を渡ると軽井沢宿が始まる。

江戸時代の軽井沢は、中山道の一宿として栄えます。中山道はご存知の通り、東海、甲州、日光、中山、奥州街道の江戸5街道の一つで、六十九次あるうちの江戸から数えて十八番目の宿場でした。現在の旧軽井沢銀座通りが江戸時代の軽井沢宿で、ほぼ直線的につくられ、その中央に大名や公家などの宿泊に備えた本陣を置き、脇本陣4軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったそう。数百人の飯盛女が働いていたという記録も残っています。

このように江戸時代の軽井沢宿は、碓氷峠の登り口の宿場として、峠越えをした旅人や朝立ちで峠を越えようとする客人たちで大変に賑わったといいます。しかし、宿場町は栄えていたものの、それを取り囲むように広がる農村地帯は、高冷地のため作物に適しているとは言えず、ごくわずかに取れるアワやヒエなどの雑穀物が主な産物という、まさに寒村。木が一本も生えていない湿地帯で、現在の「軽井沢72ゴルフ」あたりから旧軽井沢までは、舟で渡ったといいます。

そんな貧しい村には、毎年のように冷害や浅間山の噴火という自然災害が襲います。さらには幕府によって、宿場の保護及び人足や馬の補充を目的とした助郷(すけごう)という夫役が課されたため、農業に携わる民衆の暮らしは悲惨なものだったと伝えられています。旅人たちが落とす路銀(ろぎん)が、生活を支える大きな収入源だったのです。

参勤交代に公家もお泊りになられた、軽井沢本陣の今

本陣があった場所は、現在のチャーチストリート軽井沢

現在、軽井沢宿の本陣があった場所は、ショッピングモールの「チャーチストリート軽井沢」となっており、当時の面影を感じさせるようなものは残っていません。唯一、あるとすれば、チャーチストリート軽井沢の裏手に建てられた記念碑「明治天皇軽井澤行所在碑」。明治天皇は、ここにあった本陣で昼食をとられたそうです。

軽井沢明治天皇
明治天皇軽井澤行所在碑

それぞれの歴史を刻み、歩みを変えた4つの脇本陣

軽井沢脇本陣江戸屋
脇本陣「江戸屋」の子孫、佐藤真知子さんが経営する「アートカフェ江戸屋」

4軒あった脇本陣は、それぞれ「江戸屋」「三度屋」「佐忠」「丁字屋」という屋号だったそうで、「江戸屋」は現在、子孫の佐藤真知子さんが経営する「アートカフェ江戸屋」になっています。

江戸時代から続く「つるや旅館」

江戸時代から唯一残る宿「つるや旅館」

江戸時代から、代々営業を続けているのは旅籠鶴屋のみ。現在の屋号は「つるや旅館」となっています。つるや旅館は、江戸時代初期に軽井沢宿の休泊茶屋として開業。明治に入って宣教師たちがこぞって軽井沢へやって来るようになると旅館業に転じ、日本風の佇まいはそのままに、室内には西洋風の雰囲気を採り入れます。その後、大正時代を迎えると、芥川龍之介や室生犀星、堀辰雄をはじめとする文豪が訪れ、執筆を行ったそうです。

宣教師の勧めで靴屋になった旅籠萬屋

旅籠萬屋は、現在、「サトウシューズスタジオ」という靴屋に転業されています。江戸時代から明治時代に変わり、参勤交代もなくなったこともあり、軽井沢宿は衰退し始めます。そんな中、明治19年に宣教師であるアレキサンダー・クロフト・ショーが、雄大な景色と爽やかな気候に感動し、別荘を構えます。そして仲間たちにその魅力を伝え、軽井沢は国際リゾート地へと生まれ変わっていくのです。

そんな歴史の流れから、軽井沢にはホテルやベーカリーといった西洋ライフを支える店やサービスが次々と生まれていきます。明治24年に誕生した軽井沢パン発祥の店「山屋」や明治38年に生まれた「中山のジャム」などは、その代表例と言えるでしょう。

旅籠「萬屋」の主人であった佐藤五三郎もその一人で、宣教師ダニエル・ノーマンから靴屋になることを勧められたのをきっかけに転業を果たします。

ちなみに軽井沢町大字軽井沢774にある店舗「SASH! International」の奥行きが、広い敷地(13m×70m)であるのは旅籠の痕跡。当時は、通りに面した間口寸法で課税額が決められていたため、間口の狭い店となり、今に受け継がれているのです。

清流にかかる小さな橋には、男女の別れの物語が染み込んでいる

旅人と飯盛女が別れを惜しんだ「二手橋」

軽井沢宿(旧軽井沢銀座)の一番奥、東に位置する矢ヶ崎川にかかる「二手橋」。一見すれば、古い小さな橋でしかありませんが、ここには男女の愛憎・悲哀に満ち溢れた物語が、たくさん染み込んでいるのです。実はこの場所、旅籠に泊まった旅人を飯盛女が見送り、別れた場所。そんなわけから「二手橋」と名付けられたそうです。笑顔で別れた人もいれば、後ろ髪を引かれる思いで旅立った人もいることでしょう。そういう視点でこの橋を見れば、目の前に江戸時代の風景が蘇ってきそうです。

まとめ

いかがですか。このように歴史や変遷が分かれば、訪ねてみたくなる場所も、その場所やお店の見方も変わってくることでしょう。時代の流れを感じながら散策をするのも、軽井沢の素敵な楽しみ方のひとつですよ。

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