雲場池近くの別荘地に「近衛レーン」と名付けられた未舗装の道路があるのをご存知でしょうか。1941年に第39代内閣総理大臣を務めた近衛文麿の別荘があったことがその名の由来です。今回は近衛文麿と軽井沢との結びつきについて、ご紹介していきたいと思います。
近衛文麿は、五摂家の筆頭である近衞家の第29代当主で、大正5年に25歳で貴族院議員になった後、昭和12年には第39代内閣総理大臣(第一次近衛内閣)に就任。その後も2度に渡り、内閣総理大臣を歴任した人物です。
当時、華族の子弟は学習院高等科に進学するのが通例でしたが、近衛は新渡戸稲造に感化され哲学を学ぶために東京大学へ進学しました。更に政治思想を学びたいと京都大学へも編入した秀才でした。
昭和16年の第三次近衛内閣は、この年に開戦した第二次世界大戦を推し進めた東條英機内閣の直前にあたり、近衛も戦争中は政治の中心で活動していました。そのため、昭和20年8月の終戦後は戦犯として進駐軍GHQの聴取を受ける立場となってしまいました。
ちなみに妻となる千代子とは文麿が電車の中で一目ぼれし、家柄の違いを乗り越えた大恋愛だったそう。当時、その結婚は大きな話題を呼びました。
54歳で自決
昭和20年12月、近衛は戦犯としてGHQに裁かれることを嫌い、自ら命を絶ちます。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢です。
文麿の曾孫にあたる近衛忠大氏によると、文麿の自殺の理由を両親から「多くのことを知りすぎている文麿が法廷に出れば陛下(昭和天皇)に不利な発言もせざるをえない、もしも天皇陛下をお守りするならば、いっそその秘密をすべて自らと共に消す覚悟だった」と教わったといいます。
細川護熙氏の祖父
少々余談になりますが、軽井沢に別荘や陶芸の釜を持つなど軽井沢と縁の深い元首相で「お殿様」と呼ばれた細川護熙氏は近衛文麿の孫にあたります。
軽井沢に別荘を所有
明治21年、宣教師のA.C.ショーが軽井沢の気候に感銘を受けて別荘を建てたことがきっかけとなり、その後、多くの外国人が軽井沢に別荘を所有し、夏の避暑で訪れるようになりました。その後を追って日本人の上流階級が軽井沢に別荘を所有するようになまります。
明治26年、海軍軍人でありのちに衆議院議員となる八田裕二郎が日本人第一号の別荘を建築。大正15年には、近衛も軽井沢で初めてとなる大規模な別荘分譲を行った野澤源次郎から雲場池近くに別荘を購入しました。建築は、当時の流行の最先端をいく「あめりか屋」によるもので、軽井沢でのあめりか屋建築第一号別荘。東に応接室、西に居室と食堂、2階には畳敷きの座敷もあるハイカラなスタイルでした。
近衛は東京での多忙な執務の合間を縫って軽井沢を訪れ、上流階級が集う晩餐会で交流したり、別荘近くのゴルフ倶楽部でゴルフをしたり、短い避暑を楽しんでいたようです。現在、市村記念館として保存されている近衛別荘の応接室の床には、近衛のゴルフシューズの跡がかすかに残り、当時の様子を身近に感じることができます。
大正初期に撮られた、三笠ホテルの晩餐会の写真に近衛の姿が残っています。
市村記念館
昭和7年に近衛と親交のあった軽井沢町出身で早稲田大学教授の市村今朝蔵が近衛から別荘を譲受け、翌年、雲場池近くの元の場所から南原へ移築されました。夫妻は、この建物を拠点に南原別荘地開発を行い、訪れる人びとの文化向上にも力を尽くしています。
平成9年に、市村家から軽井沢町に寄贈され、雨宮池の東端に移築復元され現在は市村記念館として軽井沢町が管理していて、建物内部を見学することが出来ます。
市村記念館(旧近衛文麿別荘) アクセス
駐車場
近衛レーン
雲場池近くの別荘地に近衛の名が付いた通り「近衛レーン」があります。近くに近衛文麿の別荘が建っていたことに由来しています。
まとめ
避暑地として国内では代表的な場所となった軽井沢の歴史は、明治の頃に始まりました。その当時に建てられた旧近衛別荘(市村記念館)は、明治、大正、さらに戦前の昭和の歴史が垣間見れる貴重な建物(空間)なのではないでしょうか。