今の軽井沢があるのは、雨宮敬次郎(あまのみや けいじろう)という人物がいてこそであるという事実は、一般的にはあまり知られていないのではないでしょうか。その昔、軽井沢は寒冷地で農作物はあまり育たず、湿地帯・沼地ばかりの、ろくに木が生えていない土地だったのです。緑豊かな今の軽井沢からは、想像もできません。この美しい自然を育てたのが雨宮敬次郎。では早速、雨宮と軽井沢との関わり、残した功績を振り返ってみましょう。
アメリカを外遊した経験が、軽井沢の歴史の転換点
雨宮敬次郎(あまみや けいじろう)は、1846年、甲斐国山梨郡牛奥村(現・甲州市塩山牛奥)に生まれます。雨宮家は長百姓の家で、敬次郎は少年時代から商いに従事し、青年になる頃にはひと財産を築いたそうです。その後、横浜に転居。生糸・洋銀・蚕種などの相場で莫大な財を築き、それを元手に明治9年(1876年)11月から明治10年(1877年)6月にかけてアメリカ、ヨーロッパを外遊します。
その時、アメリカで不毛の地が、開墾によって肥沃な土地に生まれ変わる姿を見聞きし、浅間山麓の裾野、軽井沢の地に近代農場を経営するという大志を抱くのです。帰国後、彼は碓氷新道(現在の国道旧18号線)の南側の一帯の官有地500町歩ほどを1町歩あたり1円50銭(明治初期の1円の貨幣価値は、現在の約2万円)ほどで払い下げを受け、入植します。また官有地の他にも民有地600町歩も1町歩2円ほどで求め、軽井沢有数の土地持ちとなりました。
敬次郎は、養蚕や鉄道、製鉄など多角経営を行い、成功を収めた大実業家。力を合わせて商売を行った甲州商人(甲州財閥)の一人で、付いたあだ名は「「天下の雨敬」「投機界の魔王」。軽井沢の原野を購入したのも、中山道鉄道の通過点としての発展を予想したからという指摘もありますが、敬次郎自身、次のような言葉を残しています。
「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。“せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい”という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。
失敗の連続でも諦めなかった不屈の精神が、緑豊かな軽井沢を生む
1100町歩もの広大な土地に、敬次郎はアメリカ式の大農園を計画。山梨県で成功しつつあったブドウ園をつくり、ワイン醸造を夢見ます。しかし、北海道やドイツ、アメリカからブドウ種子を取り寄せ挑戦するも、気候風土・土壌が合わずにことごとく失敗。数万円の損出を出し、断念します。
次に挑んだのが、開拓民の入植による耕作地造成事業。開拓小屋を建て、一戸に馬1頭と農具を用意し、それを無償で貸す代わりに開墾することを委ねたのです。石川県や富山県から数十家族が入植しましたが、その道は険しく、敬次郎自身も共に働き、病人の世話もしたそうです。その甲斐があり、ようやく40戸ほどが定着。雨宮新田(現在の国道18号線「南軽井沢信号」付近)が形成されました。
馬の繁殖を推奨し、農民に牝馬を預けて仔馬ができると売却。売却額の1/4を農民に与えたといいます。次は豚の繁殖だと同じように貸し付け事業を始めますが、飼育方法が分からず失敗。北海道から取り寄せたソバ種子でのソバ栽培は軌道に乗りますが、敬次郎は次の一手を考えます。目を付けたのが落葉松。開墾不適地を中心に、植林を開始するのです。
「(落葉松の)性質は檜と杉の間の良材で、この土地の風土に最適で成長が早い。私自身の健康のためにも最適であった。毎年30万、40万本ずつ植えていったのが遂に700万本になった。私は木を植えるという、金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前の貯蓄ではなく死後のために貯蓄をやっているのだ」
敬次郎は所有地1000町歩余を緑化。国の造林奨励も相まって敬次郎の落葉松林は事業としても大成功し、長野県内著名森林19選に選ばれるまでとなりました。これが現在の緑豊かな軽井沢の礎なのです。千ヶ滝西区の黒橋には、樹齢100年を超える雨宮カラマツを見ることができ、軽井沢中学校に隣接する広大な敷地には雨宮御殿(雨宮記念館)が今も佇んでいます。
まとめ
雨宮敬次郎は、その後も財界で活躍。1911年(明治44年)、64歳で永眠します。落葉松の植林は窮余の策だったようですが、彼の飽くなき挑戦心があったからこそ、軽井沢は多くの人に愛される存在になれたのです。不毛の地だったとは思えない美しい軽井沢を、これからも守り、つなげていきたいものです。