ヴォーリズ 朝吹山荘 睡鳩荘
HISTORY

【軽井沢・ヴォーリズ】100を超える別荘や公共施設を設計した建築家

ヴォーリズという建築家をご存知でしょうか。ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、明治38年(1905年)に英語教師として来日し、滋賀県近江八幡の滋賀県立商業高校に赴任した人物です。でも、なぜ英語教師が、それも数多くの建築設計を手掛けたのか。そもそも滋賀県と長野県の軽井沢とではかなりの距離がある中、どのような接点から軽井沢に多くの作品を残したのでしょうか。そこで今回は、ヴォーリズの足跡を辿りたいと思います。

神戸女学院岡田山キャンパス 理学館(重要文化財)

大学1年時の出来事が彼を日本に向かわせ、運命が二転三転

ヴォーリズは、1880年(明治13年)にアメリカ・カンザス州レブンワースに誕生しました。敬虔なクリスチャンの家庭で育った彼は、少年の頃から建築家になる夢を抱きます。市内の建築現場を見て歩き、高校時代は独学で研究。夢を実現するために、コロラド大学で1年間の課程を修了した後、MIT(マサチューセッツ工科大学)の建築科に転学する予定でいたそうです。

しかし、運命の扉がこの大学1年生のときに開くのです。トロントで開かれた海外宣教学生奉仕団の大会にYMCAの代表として参加。そこでの講演に感銘を受けたヴォーリズは、建築家の夢を捨て、海外伝道の道を選んだのでした。そして来日。滋賀県立商業高校の英語教師の傍ら、熱心な布教活動に従事します。八幡YMCA会館を自ら設計し、伝道活動を本格化したヴォーリズでしたが、ところが、そのあまりの熱心さが摩擦を生み、なんと僅か1年で解雇されてしまうのです。収入源が絶たれた彼は困り果てます。そんなときに舞い込んだのが、京都YMCA会館の新築工事監督の依頼。八幡YMCA会館での経験を買われたのでした。

ヴォーリズは、京都で建築設計監督事務所を開設し、建築業をスタートさせます。実際にはMITで学ぶこともなく、建築知識は独学ではありましたが、その後の活躍を見ると、彼がどれほど熱心に建築を研究してきたのかが推察できます。初めの頃はミッション関係の仕事が中心でしたが、やがて商業施設、一般住宅や別荘に活躍の場を広げていきました。

自らも軽井沢での避暑生活を楽しみ、数多くの建築を手掛ける

ここまでの説明で、冒頭に書いた2つの疑問が晴れると思います。英語教師であったものの、建築知識は有していたこと。図らずとも日本で布教活動を続けるために、建築業を手掛けたこと。軽井沢との接点は、

「【軽井沢・避暑地の歴史】宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショーの功績」

でお伝えしたように、今でいう「口コミ」で、全国から宣教師が避暑に訪れていたことから、ヴォーリズにもきっと軽井沢の話題は耳に届いていたと思われます。実際に彼は、明治44年の「グレシット・ハウス」を皮切りに、昭和17年までの間に別荘46棟、軽井沢教会や軽井沢サナトリウムなど公共施設を56棟設計しています。大正時代には自ら秘書生活を兼ねて軽井沢で仕事を始めたそうです。

軽井沢でヴォーリズが設計した建物

睡鳩荘

朝吹山荘、通称「睡鳩荘」(すいきゅうそう)は、昭和6年(1931年)にヴォーリズの設計により、帝国生命や三越の社長を務められた朝吹常吉の別荘として建てられました。常吉の長女であった著名なフランス文学者・朝吹登美子は、この別荘をたいそう愛したそうで、必ず夏には来軽し、過ごされたと言います。平成20年に登美子の意思を受ける形で、「タリアセン」の湖畔に移築、復元されました。

ヴォーリズ 朝吹山荘 睡鳩荘
軽井沢タタリアセン ヴォーリズ 朝吹山荘 睡鳩荘

軽井沢ユニオンチャーチ

明治30年(1897年)、軽井沢合同基督教会としてユニオンチャーチが設立され、多くの外国人が利用します。その後、布教など文化活動を進めたダニエル・ノルマン(1864年~1940年)が、カナダ・メソジスト教会からの資金援助により、キリスト教各派合同の礼拝所として改装。設計をヴォーリズに依頼し、大正7年(1918年)に建てられました。

軽井沢ユニオン教会

軽井沢会テニスコート・クラブハウス

軽井沢会テニスコートは、上皇陛下と上皇后美智子さまが出会わられた場所として有名です。そのクラブハウスもヴォーリズの設計。テニスコート自体は明治25年(1892年)頃とのことですが、昭和4年(1929年)にクラブハウスは竣工します。ベンガラ色の屋根が特徴で、とても優雅な佇まいの建物です。

軽井沢会テニスコート

軽井沢集会堂

軽井沢集会堂
軽井沢集会堂
軽井沢集会堂
ハウスNO.1143 軽井沢集会堂

ヴォーリズレーン

軽井沢には、ヴォーリズの名が付いた「通り」があります。「犀星の径」を抜け、矢ヶ崎川に沿って少し北に上り、右手に折れると、そこが「ヴォーリズレーン」。歩みを進めていくと左手に「軽井沢リトリートセンター」が見えます。さらに進むとヴォーリズが設立に関わった近江兄弟社の「近江兄弟社コテージ」、さらに「アームストロング別荘」が佇んでいます。自身の山荘である「近江兄弟社コテージ」をこの地に建てたことから、「ヴォーリズレーン」と名付けられたそうです。

まとめ

ヴォーリズの軽井沢での具体的な活躍は、今後いくつかの建物を通じてご紹介していく予定です。ちなみに話は大きく変わりますが、みなさんご存知の「メンソレータム」。あの軟膏薬は、ヴォーリズがアメリカで製造販売権を得て、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)が日本で広めたもの。彼は実業家としての一面も持っていたのでした。

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