軽井沢には、さまざまな樹種が育ち、その新緑や紅葉は、見るものの心にやすらぎを届けてくれます。中でも「落葉松」は、軽井沢を代表するもの。針葉樹には珍しく、秋になると紅葉する樹木です。その美しい軽井沢の落葉松を詠った有名な詩が、北原白秋の「落葉松」。軽井沢と北原白秋との結びつき、詩が生まれた背景を、彼の生い立ちや足跡とともにご紹介したいと思います。
「落葉松」は、北原白秋が詠んだ4行8章からなる彼の代表作
落葉松
一
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
二
からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。
三
からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。
四
からまつの林の道は、
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
五
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。
六
からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。
七
からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。
八
世の中よ、あはれなりけり。
常なれどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。
少年時代から文学に目覚め、詩をはじめ、童謡の作詞も数多く手掛ける
本名は、北原隆吉。明治18年(1885年)1月25日に、熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれた後、福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に戻りました。生家は江戸時代以降に栄えた商家で、当時は酒造を主な生業としていた比較的裕福な家庭で育ちます。
明治24年(1891年)、矢留尋常小学校に入学。明治30年(1897年)には、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に進み、この頃より詩歌に熱中するようになります。明治34年(1901年)には大火により北原家の酒蔵が全焼し、家産が傾き始めるも、文学への情熱は冷めるどころかさらに強まり、同人雑誌に詩文を掲載。その時初めて「白秋」の号を用いています。
明治37年(1904年)中学を中退し、早稲田大学英文科予科に入学。この頃、号を「射水」と称し、友人の若山牧水、中林蘇水とともに「早稲田の三水」と呼ばれるほどになります。その後、与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石河啄木らと交流し、詩人としての確固たる立場を固めていきます。詩の他に童謡の作詞も数多く手がけており、ゆりかごのうた、砂山、からたちの花、この道、ペチカなどを残しています。
結婚は3回。57歳の時、闘病を続けていた糖尿病と腎臓病のため、昭和17年(1942年)11月2日、阿佐ヶ谷の自宅で逝去。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にあります。
星野温泉・湯川沿いの小径にひっそりと佇む「落葉松」の歌碑
北原白秋は、大正10年(1921年)、信州星野温泉で開かれた「芸術教育夏季講習会」に講師として招かれます。この講習会には白秋のほか、島崎藤村、内村鑑三ら、当代きっての講師陣が名を連ねたといいます。
その滞在中、白秋は妻(佐藤菊子)とともに朝に夕に、落葉松の林を散策。湯川沿いの小径を幾度となく訪れる中で、落葉松の芽吹きに感激したことから、代表作である「落葉松」が生まれました。その年11月の「明星」に発表されましたが、当初は七章の詩で第四章が最後で、「水墨集」に再録される際、八章が書き足されたそうです。
軽井沢・星野温泉の入り口の清流のほとりに落葉松の大木が伸び、その傍らに「詩碑」が建てられています。2つのプレートからなる詩碑には、一つには落葉松の詩の全文が活字体で、もう一つには第八章が白秋の自筆により刻まれています。
まとめ
現在、「落葉松」の歌碑のそのすぐ脇に、星野エリア内を行き来する遊歩道が整備されていますので、一度訪れてはいかがでしょう。今ではあまり足を止める人がいなくなったようですが、「落葉松」を詠みながら、落葉松の林を愛でるのも一興です。